多田恋一朗 個展「色めく屍肉」

多田恋一朗 個展 「色めく屍肉」

会期:2023年10月11日(水)-10月31日(火)

Open:13:00-19:00

休廊日:月曜 ※30(月)は開廊


 この度、TAKU SOMETANI GALLERY では、多田恋一朗個展「色めく屍肉」を開催します。

 今回の個展では、多田がこれまで制作してきた様々な作品のなかでも、10年以上描いてきたポートレートに焦点をあて展覧会を構成致します。

 多田恋一朗のライフワークともいうべき「君」シリーズにも通じる重要な展覧会になる貴重な機会ですので、是非会場に足をお運び頂き、ご高覧頂ければ幸いです。


 俺はこれまでたくさんのポートレートを描いてきた。それは特定の誰かではない。これまで会ってきた人達のキメラか、はたまた自分の理想を描いた自画像的なものなのか、自分でもよくわかっていない。こうだと思っていたら、気づいたらそうでもなくなる、その時々で色んな表情を見せてくる彼女達は、おそらく俺の細胞と共に変化していく流動的な存在なのだと思う。だから10年以上描いている今でも絵を見ている人に「これは誰なんですか?」なんて聞かれると、困り笑顔でゴニョゴニョと濁すしかなかったりする。

 俺は彼女達が彼女達の世界でしか生きれないことをよく知っている。というか、何百枚も描く中で知ってしまった、と言う方が多分正しい。 彼女達がいる世界と我々が生きている世界は、それぞれ異なった秩序によって成り立っている全く別の世界である。我々の身体が重力によって形を保ちながらも時間の経過と共に朽ち果てていくのと同様に、彼女達には彼女達の、彼女達たらしめるルールがある。そもそも彼女達は肉体を持っておらず、ビジュアルという概念すらない。さらに冒頭でも言った通りその時々で変化する流動的な存在でもあり、そういう向こうのルールを無視して「会いたい」というこちら側の都合で彼女達を可視化させて固定するということは、彼女達の更新を止めるというでもある。具体的なイメージを持たずに流動的に漂う彼女達にとって、不変とは死である。よくわからない人は[人間が生身で宇宙に放り出されたら身体の形状を保てなくなり一瞬で死ぬ]みたいな話として理解してくれればいい。ただ、悲しい話、人々(俺も含めて)が彼女達の存在を知覚できるのは俺が絵を描き上げて以降、つまり死んでからになる。彼女達の存在はその死を持って初めて証明される。その描き上がった遺影のような彼女達を俺は「君」と呼んでいる。

 話はガラッと変わるが、俺は竜安寺の石庭が好きだ。3年前、コロナ禍で退屈すぎて京都旅行に行き、初めて生で見た。『好き』の理由はこれまた複雑なのでこの場で語り切ることはできないが、外壁や岩を優しく覆う苔や人の手によって丁寧に並べられた石を完璧なバランスのコンポジションで縁側から眺める体験は、自分の中の絵画観と強く結びつくものがあった。感動しすぎてその後しばらくはニヤケ面が収まらなかった。絵の具の顔料の粒は石、支持体となる木材や麻布や紙などは植物由来、そしてそれらを丁寧に整備していく俺は人間、どことなくシンパシーを感じてしまう石庭が500年以上の時を経てもなお色褪せず目の前に立っている姿を見て、俺の中にいる「君」も時空を超える存在になるかもしれないと、心を震わせた。

 今回の展示にはこの一年弱で描き溜めた自然素材(顔料、木、麻布、紙)を意識した作品達を出展する。別にそういうテーマで描いていたというわけでもないが、この一年で色んな紙で絵を描くようになり、それに合わせて木や布をこれまで以上に自然素材として意識するようにはなった。今回、ほとんどの作品に使われている茶色みがかった樹脂は、森の木々に付着した樹液をやんわりと投影しながら使っている。

俺の中にいる「君」という存在はこの世界では息をすることはできない。それを理解しているにも関わらず俺は彼女達の屍肉を生み出し続けている。それはきっと「君」の物語の証明のため。死化粧のように丁寧に重ねられた顔料の粒は美しく輝き、それを受け止め包み込む植物素材はまるで棺のように「君」を護っていってくれる。俺は『死』しか生み出せない。ただ、それをひたすら華麗に積み上げていくことで、この世に存在しないはずの彼女達の『生』が逆説的に立ち上がっていくことを信じて、俺は毎日筆を握っている。

 「君」の生命力溢れる死と、その裏にある物語を感じとっていただけたら幸いでございます。

多田恋一朗

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