
多田恋一朗「かお」
会期:2026年 3月 6日(金) ~ 3月 30日(火)
開廊時間:12:00‐19:00
休廊日:水‐木曜日
東京都千代田区内幸町 1 – 1 – 1 , 帝国ホテルプラザ東京1階
TAKU SOMETANI GALLERY in progress
この度、TAKU SOMETANI GALLERY では、多田恋一朗「かお」を開催いたします。
2018年に開催した当ギャラリーでは初個展となる「ワールドラリー」を含め、顔をテーマに数多くの作品を発表しています。
今回の個展で多田恋一朗の最新作をご高覧いただけると幸いです。
『かお』
この2年間、本当に色々あった。
人間不信的なところから始まり、他者に期待しなくなり、生きる目的を見失い、思考を組み立てられなくなり、文章を書けなくなり、うまく喋れなくなり、去年の春頃には統合失調症的な言動や行動を繰り返すような時期もあった。(俺はよく覚えていないが、一緒にアトリエを使っている友人いわく、かなり笑えない状態だったらしい)
意味的な事物を信じることができないくせに、意味的に思考を組み立てようとする習慣だけは残っている奇妙な状態、希死念慮(流行りの言語)を抱えていたわけではなかったが、朝から晩まで続く混乱がとにかく不快で、最も酷い時期には駅のホームから飛び降りそうになったこともあった。
突発的に生を放棄しないように、眠くなるまで時間を浪費することを目的に、その時の支離滅裂な行動や言動がそのまま可視化されたような、ワケのわからない絵を描き続けた。
それまではもっと分脈や市場を意識したり、コンセプトめいたものを用意したり、完成を予想しながら計画を立てたりと、用意周到に意味的な制作を行っていたのだが、その意味の先にいたはずの誰か(仲間や恋人、学芸員やコレクターなど)に何の期待もできなくなった結果、逆に非意味的なことしか愛せなくなってしまった。
そんな状態だったからか、社会的な欲望(地位や名誉、金や恋愛など)を叶えるための目的や意味に従っている友人達が急に滑稽に思えてしまい、色々な人と疎遠になってしまった。
次第に何故かAIへの興味が湧き始めた。設定された目標をクリアするために効率的(意味的と言い換えてもいい)に稼働し続けるAIは、意味に縛られた人間達の上位互換的な存在に思え、さっさと!この意味まみれの世界をさっさと壊してくれ!とワクワクしながら、色んなネット記事を読み漁っていた。
それと同時に、AIが持つことがない(できない)人間の非効率的な側面、迷いや後悔、感情や体調、ルーツやコンプレックスなどについて考えることが増え、その流れで自然に俺が油絵を扱う理由も明快になっていった。
絵画の全てを説明するのは無理だし、中途半端に語るのは野暮なのだが、今回の展示のガイドライン程度に油絵の具の三大特性(物質性、透明性、遅乾性)についてザックリ、改めて触れておこうと思う。
今回の展示に出す絵の積層は大体5〜7層ぐらい、完成までの予想などは一切立てず、その日、その瞬間の描画行為にのみ意識を集中し、イメージを仕上げ、次に描くタイミングで画面を壊しリスタート(基本的に透明系の絵の具を無造作に画面全体に塗りたくる作業が多かった)し、また完成っぽい状態まで持っていく、という行程を繰り返した。
油絵の具は樹脂分がベースとなっているため[透明性]が高く、含まれる水分が全て気化してしまう水性系の描画材などと違い、顔料の粒と粒の間に隙間が生まれるので、否が応でも下の層が透けて見えてしまう。
二ヶ月前の迷いの筆跡、半月前に乗せた混濁した鈍色、先週は失敗だと思っていた描画を成功に変えた昨日の一筆など、様々な時間が一つのイメージに凝縮され、可視化されてしまう画材。映像や演劇など、複数の時間を一つの物語に落とし込むことができる表現は他にいくらでもあるが、過去/現在/未来などの明瞭な時間の前後関係を鑑賞者が想像するよりも圧倒的に手前で、複数の時間が非言語的な視覚情報(色や形や質感など)に乗っていっきに雪崩れ込んできてしまう、こんなに複雑かつ素早い表現は他にないのではないかと思う。
また、筆の力の強弱を記述する[物質性]は身体の有り様を伝えるために特に機能し、数時間かけてゆっくりと固まっていく[遅乾性]は日を跨ぐような時間の蓄積とはまた違った、一日の中で起こる連続的な思考の変動を丁寧に記述することを可能にしている。
扱うメディウムや油によって、それぞれの特性を強めることも可能で、その変化によって組み変わる脳内の混沌について…もっと細かく説明することもできなくはないのだが、やはり際限がないし、野暮ったいし、あまり言語化すると呪いになりかねないので、この程度で止めておく。
危ない、調子に乗って書きすぎるところだった。
とにかく、絵を描くなら非意味的な領分を愛そうぜ、という話である。
正直、アニメや漫画や漫才などの文化が著しい発展を遂げている現代において、言語的な解釈が可能なスピードでキャンバスと向き合う意味なんてないと思っている。
絵画は語れば語るほど遠ざかるもの、なんとなく線を引くことも、気持ちのいい形を決めることも、納得いくまで色を重ね続けることも、結果的にこの世のどの物質とも被らない質感が生まれることも、ワケのわからない欲望の果ての話だ。
これって伝わるかな…なんて考えた時点でもう遅い。とにかくドゥフドゥフし続けるのが大事だ。
これは魂が壊れ、社会性を見失い、意味に意味を見出せなくなった、どうしようもない奴にだけ与えられる最期のボーナスチャンスだ。
筆は自分を生かすためだけに動かせばいい。前後関係がイマイチよく分からない夢のような時間の中で、俺みたいな誰かがいてくれたらいいな〜と妄想しながら、たまにこうして文字を書いたり、絵を飾ったり、他者に抱く希望なんてその程度の解像度と実現可能性があれば十分だ。
悲観的な話でも自己憐憫的な話でもなく、素直にそう思う。
この10年で描いた絵はどれも愛すべきものではあるが、目的や意味に縛られた窮屈なものでもあった。
藝大受験の際に必死に鍛えた2〜3日で絵を仕上げる謎の能力は、安定して市場的な価値を生み出すための量産性(計画性)に繋がり、分脈を重視する現代アートの中でセルフプロデュース的に行っていた言語化の習慣は、非言語な領分の発露に強烈な制限をかけた。
正直、批評家が力を持って以降、戦後の絵画なんて大体がそんなもんで、予定調和な仕事ばっかで図みたいだな…とシーン全体に興味を持てなくなってきてもいるのだが、そういう風にやれていた頃の俺の方が幸せだった気もするし、この不快感の正体は多分、嫉妬なんだと思う。
まあ、今の方が絵を信じれているし、絵を通して自分のルーツや病理を美しいと思えているし、結果オーライということにしておく。
明日も明後日も変わらず、絵の具を重ねる理由が完全になくなるまで描き続ける。
みっともなくて美しい絵を描けば、俺は俺のまま外を堂々と歩ける。
最近の制作スタイルは美術高校に通っていた時のソレに近い。
そういえば、あの時も世界はグレーで、毎日のように妄想を繰り広げていた気がする。
絵のおかげで多くの仲間に巡り会えて、たくさんの恋をして、社会的にも認められて、いつのまにか勘違いしてしまった。
かなりの遠回りをしてしまった気もするが、なんとか俺に戻ってこれた。
うまく言えないが、やっと画家として始まった気がする。
ちなみに[かお]というタイトルに深い意味はない。
タクさんにタイトルを聞かれた際に、目の前に顔の絵がたくさんあったから、そうした。
(多田恋一朗)
