
多田恋一朗個展『ミノタウロスの白昼夢日記』
会期:2025年7月4日(金)-7月20日(日)
opening reception:7月4日 17:00‐20:00
開廊時間:13:00-19:00
休廊日:月曜
東京都渋谷区神宮前2丁目10-1,サンデシカビル1階

この度、TAKU SOMETANI GALLERY では、多田恋一朗個展『ミノタウロスの白昼夢日記』を開催いたします。当ギャラリーで個展での開催は、2年ぶりとなります。 常に”絵画”に正面から向き合い続ける多田恋一朗の新作をご高覧いただければ幸いです。
また、本展示をもちましてギャラリーを移転いたします。新住所が決定次第ホームページ、sns等にてお知らせを致しますので、何卒よろしくお願い申し上げます。
『ミノタウロスの白昼夢日記』
生きる理由もないし、死ぬ理由もない。八方塞がりの日々が続いている。
全力で他者を愛し、失意を重ね、色々なことがどうでもよくなった。
いつのまにか、自分の立場を社会的な観点でデザインするような、意味的な思考を組み立てられなくなっていた。
別にポジティブな感情もネガティブな感情もないが、退屈はシンプルにキツイ。
誰かに期待しそうになると頭が真っ白になる癖に、かつての恋人と戯れ合うような夢は見る。
本能的な欲動とトラウマ的な思考停止が延々と交互にやってくる、やんわりとしたパニック状態が寝るまで続く。
対処方法がわからずに呆然とするだけの日々が続く、春先に一度、貨物列車に飛び込みそうになった。
本当に自然な思考だった。家に帰ったあとで怖くなり、電車が来るまでホームに降りるな!と慌ててメモに書いた。
この空虚をそのまま放置すると大変なことになると思い、俺はソイツをしっかり監視することにした。
まずは意味的な思考を失った分、非意味的な思考に価値を見出すよう心がけた。
ひたすらゲームをしたり、酒を飲んだり、突発的に坊主になったり、色々と試行錯誤を繰り返した結果『名探偵コナン』を垂れ流しながら絵を描く、という一つの答えに至った。
キャラクターのどんな所作や台詞も伏線的に回収される、コナンくんの意味的な思考(というか推理)に耳を傾けながら絵を描くと、不思議と手は無心になれた。
本来であれば無意識の羅列には不安が付きまとうもの(この時、既に発話が支離滅裂になり始めていて、コミュニケーションの断絶に苦しんでいた)だが、立ち上がった絵は混沌としながらも美しく、この精神状況を維持したまま自身の生を肯定できたような気がして嬉しかった。
基本的には好きな色で描きたいモチーフを描き、それに似合う別の色で別のモチーフを描く、の繰り返し。
一つのポイントに保つ集中力の限界は5〜10分、コナンくんの声を聞きながら思考の分断を緩やかに許容し、画面が埋まるまで手を動かした。
20枚くらい描いた時に迷宮の行き止まりのような、一点透視図法的なイメージを無意識的に描いてることに気づいた。
なるほど、八方塞がりの現在を煌びやかに捉えようとしているのかと、自分で勝手に納得した。
毎日、十数時間、思考が流転し続ける日々は地獄だったので、1日をあっという間に終わらせられるルーティンが確立することができてホッとした。
家に帰り布団に入り、その日に描いた絵を思い出そうとしても何も思い出せないという、かなり特需な感覚を覚えるようになったが、ぐっすり眠れるようになった。
そんな日々を送ってる中、マイメンの布施琳太郎がスタジオに遊びにきた。
こんな状態になってからはあまり人に会っていなかったので、何をどう話していいのかわからなかったが、布施は俺の絵を興味津々に見てくれた。
自閉的になり、周りから心配されて萎えてた俺を見て、なんか仕上がってるな!と笑ってもくれた。
コレは完全に俺のエゴなんですけど、この方向性のタブロー的なやつも見たいすね!と酔っ払った布施に言われた。
好きにやらせてくれやい、とその時は笑って誤魔化したが、布施のその言葉は意外と俺の中に留まった。
他者に期待することが完全にトラウマ的になっていて、なるべく自己完結できる生活や制作のスタイルをとっていたが、自己とも他者とも割り切れない、自己的な他者という特殊な立ち位置の存在が多分いる。
母親なんかはまさにそうだ。貨物列車に飛び込みそうになり、慌てて目を瞑り視覚情報を遮った時、頭の中に母の泣き顔がなだれ飲んできた。
あの時、咄嗟に俺が生きようとした欲望は、子の健康を願う母の欲望そのものだった。
布施もまた俺の人生にとって大切な存在で、あくまで酔っ払いの小言的なものではあったが、その欲望を己が欲望として捉えることは自然なことのようにも思えた。
それ以降も変わらず、平穏な毎日を送るための絵しか描いていないが、布施という媒介を通して久しぶりに外向きの意識がほんの少しだけ芽生えた。
今の自分にとってタブロー的なものがなんなのかは分からないし、他者への期待が膨らむとまたしんどくなりそうなので、過度に意識が傾きすぎないようには心がけているが、布施(のような誰か?)のために最低限、身だしなみや態度を整えようと思い、こうしてテキストを書いている。
全体の1%でも超えると負のループに飲み込まれるが、0%になると全てが終わってしまうような、薬にもなり得る微細な毒素、承認欲求とは元来そういうものなのかもしれない。
おそらく俺は今、迷宮にいる。そして、そこから抜け出せないことを重々理解している。
春先、恋仲的にかなりいい感じになっていた女の子がいたが、付き合うかどうかの瀬戸際で頭がパニックになり、俺は逃げ出した。
多分もう、どうしようもない。ガキの頃に家を出た親父、死別した後輩、絶縁した親友、いくつもの背中を見てきたし、この名前に恥じないだけの恋もした。
愛に比例して発生する絶望の影、これ以上その恐怖に耐えることはできない。
まるでミノタウロスだ。人らしく背筋を伸ばすことも、動物のように野糞をすることもできない、どちらの環境にも順応し切れない中途半端な存在だ。
だが、生きている。紛れもなく、目の前には生が立ちはだかっている。
スタジオに行く前にコンビニでアイスコーヒーと季節限定のスイーツを買ったり、中古ショップで寝心地のいいソファを探したり、聴き心地のよいプレイリストを何十時間もかけて作ったり、残された生の余白を精一杯に彩るための選択をやめることはない。
美しい絵の具やペン、様々な質感の紙、たくさんの宝石を生み出す企業努力への感謝が以前よりも増した。
あの空虚をキラキラにしてやるんだ!と画材を抱え、毎週のようにワクワクと街を闊歩している。
やたらメタリック絵の具やパール紙を使うようになった。比喩ではなく、わりとマジで宝石だと思っている節もある。
見る角度によって明度や彩度が変わり、絵画空間をチグハグにしてしまう金属質の画材が前は苦手だったが、今の俺のこの世界認識にはかなりフィットしている。
こんな世界があってもいいし、なくてもいい、そんな優柔不断な生が美しいものでありますようにと願っているのだ。切に。
あの日々は溶けてなくなってしまったが、俺の中にはまだある。
今でも家でボーっとしていると思考が乱反射して頭が割れそうになるが、大丈夫。描けば1日は終わる。
この生を素のまま肯定していくために、ぐちゃぐちゃになった景色をしっかり観察し続けたいと思う。
迷宮を出たがる欲求はコナンくんに丸投げして、俺は今日も迷宮を彷徨い、ドン詰まりの行き止まりを飾る。
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んー、なんか書きすぎたかも。ちょっと気持ち悪い。
まあ、全部お前の妄想だろ!といって笑ってください。伝わるかどうかなんて確認できないし、共存的なものは望んでいません。本展示は見せもの小屋的なものとして捉えてください。
でも、美しいでしょ?そこだけは自信あるんですよ。こんな奴の存在や生き方をやんわりとでも認めてもらえたら何よりです。
(多田恋一朗)