多田恋一朗個展「ワールドラリー」

KOIICHIRO TADA「ワールドラリー」


July.24(Tue)-August.23(Thu)2018
Extra holiday August.17(Fri)-20(Mon)
Open : (Tue)-(Sat) 12:00-18:00
Opening Reception : July.28(Sat) 17:00-20:00

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〒103-0002 東京都中央区日本橋馬喰町2-4-1 Bakurocactus 4F


絵画空間の秩序を本能的に盲信して「肉体の無い人格」が存在する世界を創造する行為は「妄想」と呼ぶに相応しい。
絵画空間の秩序を理論的に解体して「肉体の無い人格」が存在する世界を破壊する行為は「現実」と呼ぶに相応しい。
「妄想」に全神経を集中させた場合、その果てに待っているのは「肉体の消滅」(自殺)である。
「現実」に全神経を集中させた場合、その果てに待っているのは「感覚の消滅」(退屈)である。


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[私の実感は、テニスの「ラリー」のように、二つの「現実」を行き来する]
 中学生時代のある日、教室の隅の席に座っていたユカリという女の子が学校を休んでいた。当時たくさんの人が作っていた自己紹介用のモバイルサイト。
 ユカリのページのコメント欄には複数の誹謗中傷が書き込まれていた。学校中で話題になり、その日の放課後には誰が犯人なのかはすぐに判った。
 ユカリと同じ吹奏楽部に所属するユミという女の子だった。ユミは一人で複数の投稿をしていた。みんなが集団いじめだと思っていたそれは、たった一人が
持った悪意だった。

 ユカリを不登校に追い込んだのは「誰」なのだろう。裁かれるべきはユミで間違いないが、ユカリの中に居たのはユミじゃない。
 複数の人に存在を否定されるような疎外感。その複数の「人」はユカリの中にしかいない。幽霊でもなければ⿁でもない。
 人として想定された肉体を持たない人格。ユカリの目には人の温もりを持たない無機質な顔が並んで視えていたのではないだろうか。
 相手の「主人格」に在る真意と自分の解釈の間には常に「ズレ」がある。
 だから「あいつはいい奴だ」と言って作り上げた「肉体の無い人格」は、相手の「主人格」とは似て非なるものになる。
 ただ、表情や声色やジェスチャーを介して行われるコミュニケーションにおいての「ズレ」は僅かなもので、実害が生まれるほど見当違いな「肉体の無い人格」
を形成するということもなかった。たまにちょっとした勘違いが生まれることがあっても、それは会って話せば解決する程度のものだった。
 「ズレ」の在り方に変化を感じたのは携帯電話を手にして友達とメールをするようになってからだ。
 SNS 上で行われる顔の見えないコミュニケーションには表情も声色もジェスチャーも無く、秒単位で行き来していたはずの言葉のキャッチボールは分単位から
日単位で行われるようになった。簡易化された相手の言葉を元に時間をかけて相手の真意を読み取ろうとすれば当然自身の解釈の中に細かい誤読は生まれ、
相手はさらにそれを誤読した。そんなやりとりを積み重ねていくウチに「ズレ」は徐々に大きなものになっていった。次第にSNS きっかけの喧嘩も増えた。
 対面して行われる従来のコミュニケーションでは、分けて考える程でもなかった主人格と肉体の無い人格の「似て非なる関係」は、混同して考えると実害が
生まれるほど「解離した関係」になっていた。
 最初はメールなどで受動的に作らざるを得なかった「肉体の無い人格」も、twitter やInstagram などの流行りのSNS を追ううちに自発的に作るようになって
いた。アイコンで、紹介文で、投稿で、画像で「肉体の無い人格」を彩った。無自覚に、あまりに自然に、「主人格」と「肉体の無い人格」を分けて考えることは、
ある種の習慣のように自身の生活の中に根付いていった。
 他者に対しても自身に対しても、人格を二分化して考える習慣は、それまで無かった新しい感覚を生んだ。一人でTwitter で呟く夜、友人と話していた昼の自分
が別の人間のような感じがした。友人と話している昼、Twitter に投稿された夜の自分を友達との会話のネタにした。
 片方に「現実」としての実感がある時、もう片方を「非現実」として処理する、離人症のような感覚。苦しくもなければ楽しくもなく、ただ、当然のようにその
サイクルは生まれた。


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 「ワールドラリー」は、この感覚を軸に進める「絵画」の展示だ。「空間性に在る」と言い切ることも「平面性に在る」と言い切ることも出来ない、定位置を持た
ない私の実感を示すための展示だ。相反する実感を一つの実感として鑑賞することは奇妙なことだろう。
 ただ、それが人なのだ。バグが生まれないように何かに成り切っているだけで、本当はいくつもの矛盾を抱えている。
 二つの人格、二つの世界。二律背反の情景を可視化させることこそが、私にとっての「人間の証明」なのである。
(2018.7.4)􀉻多田恋一朗